「小さな小さな砂鉄の粒」

イギリスにきて、自分の英語レベルの低さに驚き、英語日記を始めた。大学ノートに、1行間隔で、2ページ程度、思っていることを英語で書くことにした。自己満足ではいけないので、語学学校の先生に添削を頼むと、本当は仕事外なのに、快く引き受けてくれた。その先生は、いつも元気な女性で、ユーモアラスで堂々としていて、最初の授業で、自分はレズビアンだと言った。 喜怒哀楽があって人間らしくて、自分の意見をしっかりもっていて、フリーダムな印象で、自分に正直に生きることは、うつくしいと思った。 

先生は、毎回、赤ペンで、日記のスペルや言い回しなど、直してくれたり、たまに「今日のは、哲学っぽい」とか「先生の夢はジャーナリストだった」とか、たまにブラックユーモアあふれるコメントや感想もあったりして、ちょっとした交換日記となった。

また、日本人が間違いやすい語彙や文法がつまっている私の日記は、たびたび、授業に使われることもあり、わたしとしては、英語の理解力も深まり、休憩時間に、日記をネタに話しかけてくれる人もいて、交流もしやすくなり、先生に感謝。 

日記には、幼少期のことも書いたりした。小学生の頃、わたしの両親は共働きで忙しく、ひとりで過ごすことが多く、さみしいなーと思ってました。忙しい上に、わたしの食事まで用意しなくてはいけない母を見ながら、わたしは、いないほうが、母は楽だろうにと思いはじめて、

わたしって、この世にいる必要ある?わたしなんて、この世にいる価値ある?とか思うようになった。なりました。いま考えれば、わたしが料理をつくったすればよかっただけじゃん!と思うのですが、さみしさのチカラが勝っていたのでしょう。そのときは、ネガティブで、もう、さみしいのはいやだなぁ、感情のある人間はいやだなぁ、という気持ちが、毎日勝って、ネガティブの勝ち星が毎日続いた。

そして、生まれ変わったら、絶対に人間には生まれ変わらないぞ!と思うようになった。何に生まれ変わろうかな?と考えることが多くなり(何かには、生まれ変わろうと思っていたんだな、わたし。)

犬は、おりこうさんに しなくちゃいけないから、猫のほうが気楽そうだと思ったり、かえるとか爬虫類もいいなとか。いや、でも、生き物はいやだな。感情がありそうなのは生き物は、もういやだ。さみしいと感じないものがいいなと。そうだ!木はよさそうだ!自然のなかで、気持ちよさそうだ。でも、木も意外といろいろ感じているかもしれない。二酸化炭素吸って、酸素だすなんて、賢いから、いろいろ考えているかもしれない。

感情のないもの、呼吸しないものに生まれ変わりたいなぁと。そうだ!ひらがな、は、どうだろう!しかも、書いて、すぐに消しゴムで消されてしまう、ひらがな。

だから「鉛筆」で書かれた”ひらがな”でないといけない。マジックで書かれたら、訂正線の下で生きることになるし、白い紙で上から貼られたら、生き埋めになる。誰かが、文章とか書くときに、ひらがなの文字を書いて、あ!間違えた、と、すぐに、消しゴムで消される「鉛筆でかかれたひらがな」。消えたいなぁと思ってたんだなぁ、と今気づく。

いやまてよ、ひらがなといっても、それぞれに命があるな。どの文字がいいかな?と一文字一文字みながら、やけに「か」が光っているようにみえて、ひらがなの「か」に生まれ変わろうと思いました。

いやまてよ、「か」には3画ある。この画数にも命がある。じゃあ、3画目に生まれかわろう、と。

いやまてよ、鉛筆は、ちいさな砂鉄の集まりだから、その集まりをつくる、砂鉄のひと粒ひと粒に命がある。

最終的に、誰かが鉛筆で書いた「か」の3画目の一部となる「小さな小さな砂鉄の粒」に生まれ変わろうと思っていた小学生。確かに存在したけど、存在したことすら、知られていない、けど、存在してた、みたいな、「か」の一部の砂鉄の一部に。というようなことを英語で日記に書いた。

日本語でさえややこしいのに、英語で書いて提出。戻ってきた日記には、赤ペンで、たくさんの添削があった。それだけ、ちゃんと読んでくれたと感謝である。

 

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命は大切だ。命を大切に。

そんなこと何千何万回言われるより 

「あなたが大切だ」

 誰かがそう言ってくれたら 

それだけで生きていける。

出典:公共広告機構(2005年度)

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※いま、調べたら、鉛筆の芯は砂鉄じゃなくて、粘土でした。