30歳過ぎの遅い反抗期 父と娘、と、その母。

わたしの反抗期は遅かった。30歳過ぎてからやってきた。一般的に、反抗期は10代だったという場合が多いだろう。私の両親は、母はお店(釣り具屋)をやっており、父は単身赴任が多かった。夕食は大抵ひとり、または21時過ぎ、週末もひとりで過ごすことが多く、孤独を感じる小学生・中学生時代だった。

母は、子育てをしながら、家計の足しになればいいな程度の気持ちで、私が4歳のときに、お店を始めた。母が始めた、というより、父の提案だった。専業主婦だった母は、あまり考えずに気楽に考え、その提案にのった。当時は釣りブームもあってか、予想以上にお客さんがきてくれた。自宅とお店がつながっていた我が家。休日は、朝早く釣りに出かけるお客さんが、朝6時に自宅にやってくるときもあれば、平日の夜は会社帰りのお客さんがお店に遅くまでいた。

自営業は、悠長に子育てしながらできるものではないと、母は、自営業の大変さを思い知っていた。しかし、母の大変さを父は知らず、週末に帰る父とケンカも多かった。父は、母にお店はやめてもいいというが、母はやめなかった。きっと、大変さと同時に、商売のおもしろさも感じていたのではないかと思う。また、父も、売上のあるお店をやめることは惜しいと思っていたと思う。

両親は、私に、さみしい思いをさせていることは感じていながらも、子育てと商売の間で葛藤していたと思う。私は、できるだけ、母の助けになるように、掃除や洗濯などの家事をした。ひとりさみしい気持ちは、ドリフターズや漫才が支えてくれた。しかし、ときには、わざと、接客中の母のところにいって、ご飯をつくってくれと困らせることもあった。そんなことを繰り返しているうちに、だんだん、わたしは、この家にいないほうが、両親も私も楽になると思った。

中学3年生のとき、家をでよう!と決意し、遠い高校を選び下宿をした。わたしには、10代の反抗期はなかった。

30歳過ぎてから、私の反抗期は、いきなりやってきた。自分はまだ大人になっていないような感覚があった。30歳まで都会で一人暮らしをしていたが、田舎に戻ることにした。理由はいくつかあるが、都会に疲れたという感じだろうか。

最初は、普通に暮らしていたのだが、だんだん、両親に、イライラし、わがままをいい、反発するようになった。小さい頃のうっ憤を晴らすかのように、何かと反抗した。これを反抗期といっていいのか分からないが、やり残した反抗期を修了するために帰ってきたのか?と思うほどだった。

ある日、父と大喧嘩になった。私の気持ちが分からない父の態度、これまでの母の苦労も分からない自分勝手さ、自分中心の父の考え方に憤りを感じ、私は爆発して「精神科で治療してきて!!」と言ってしまった。30歳過ぎてからの反抗期は、口も達者で、思春期の反抗期では考えらないこわさがある。言い過ぎてしまったと反省し、落ち込んだ。

それから3日間、口をきかずにいたが、母から電話がかかってきた。「お父さん、病院さ行ってきたってさ」と。え??本当に行ったの?と、私は動揺しながら「どうだったって?」と聞くと、

母は「もう治ったって。初期症状だったみたい」という。「は??精神科で1日で治るなんてないから」というと、「なんかね、泌尿器科にいって、おしっこの出がよくなったってさ」と母。それは、父親の持病であり、毎月通院している病院である。

私の心は母なりのユーモアで慰められ、私は安心した。私の言葉を真に受けて、父親が本当に精神科にいって、本気で気が病んだらどうしようと思ったが、父は、落ち込むことなく、さんまのテレビ番組を観て大笑いをしていた。いや、落ち込む姿はみせなかった。

これを機に、私の遅い反抗期は少しづつ収束していった。恥ずかしながら、やっと、しっかり甘えられたようにも思う。子どもがどんな暴言をはいても、それを受け止めてくれるのだという親の強さと存在に安心感を得たように思う。また「どんな自分であっても”ここ”にいていいんだ」という安心感も得た。”ここ”というのは、”家”でもあるし、”この世の中”でもあるような気がする。15歳のときに感じた「わたしは、ここにいないほうが、両親も私も楽になる」と思った感覚は勘違いだったのよ、と遅すぎた反抗期からのメッセージをもらったようだった。

これからくるであろう息子の反抗期(個人によってはない場合もある)。養育者として、強さとやさしさと、ユーモアと余裕をもって、しっかり受け止めよう。反抗期は子どもが大人になるための儀式だ。

2019年夏:福岡博多旅行。夫と息子と私の両親と、立ち食い寿司にて。