すみれは、すみれのやうに。

先日、岡潔氏(明治34年)という孤高の天才数学者の人生ドラマを観ました。岡潔さんは、多変数複素関数論の研究で人間離れした成果を出した伝説の人で、世界の数学者たちが誰も解けなかった多変数函数論の3つの問題を解いて世界を驚かせたそうです。岡氏は、当時、論文を出しても、なかなか理解してもらえず、長い間、孤独となった時期があったそうです。

 

岡氏の“春の野のすみれは、ただ すみれのやうに咲けばよい”という言葉が好きです。

 

 「数学をして人類にどういう利益があるのだ」と問う人々に対して、すみれはすみれのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだ、と答えて来たそうです。そして、咲いているのといないのとでは、おのずから違うというだけのことであると。

 

また、日本で義務教育が始まったとき、60年後の日本を憂いたといいます。義務教育しか受けていない者は疑うことをしなくなる、それが本当に正しいのかどうか考えなくなると。

 

岡氏は、“数学のもとになるのは頭ではない、情緒だ”と言っていて、“僕は論理も計算もない数学をやってみたい”と言っていたということを知りました。

 

自分の頭を使う力をどう養うか、息子にどう養わせるかを考えました。