何を言われようが、自分で意味づけすればいいのだ。それでいいのだ。

以前、私と日本人女性2人で、イギリスの街を歩いていると、こちらを見ながら、英語で「ヘイ!スシー!テンプラー!ハハハー!」と叫ぶイギリス人らしき男性がいた。

日本人に会うと、挨拶代わりに「すしー!てんぷら!」という外国人がたまにいるので、私にとっては、微笑ましい程度の気持ちだったが、1人の友人は「またナンパだ」と喜び、もうひとりの友人は「また人種差別だと」と怒って、落ち込んでいるのだ。

なんだ、この受け取り方の差は!「ヘイ!スシー!テンプラー!」で、ナンパだと思う想像力の高さよ!一方では人種差別だと思う、これまた想像力の高さよ!この受け取りの差に驚いた。これまでの人生の経験値が関係しているのだろうか、それとも気質か性質か、生育か、認知のゆがみなのか、この受け取りの差には、さまざまな要因があるだろう。

生きていれば、周りからいろいろ言われることがある。いい言葉を言われることもあれば、悪口らしきことを言われ傷つくこともあるだろう。そんなとき、傷つくか傷つかないか、自分で決めていいということを、イギリスの街で、この日本人2人に教わったのである。何を言われようが、自分で意味づけていいのだ。それでいいのだ。

そして、お釈迦様の「悪口は受け取らないと相手の元に戻る」という話が好きだ。

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引用元:悪口は 受け取らないと 相手の元に戻る - お坊さん33秒法話[hasunoha]

あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」。そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。

「お釈迦の野郎、きっと、おれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない」そして、その日が来ました。

男は、お釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。

それでも、お釈迦様は一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。一方的にお釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。

どんな悪口を言っても、お釈迦様は一言も言い返さないので、なんだか虚しくなってしまったのです。その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男にたずねました。

「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか」

こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。

「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな」

男はそう答えてからすぐに、「あっ」と気づきました。お釈迦様は静かにこう続けられました。

「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるんだよ」

悪口は 受け取らないと 相手の元に戻る - お坊さん33秒法話[hasunoha]

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褒められたら、素直に受け取り、悪口らしきことを言われたら、「その悪口の贈り物、受け取らないぜ」と唱えればいいのだ。ノーサンキューなのだ。

先日「あなた、顔が小さいわね」と言われたので、「ありがとう!」と素直に受け取ったら、「いやいや、顔が小さいわね、って言っただけで、褒めているわけではないから」と返されました。恥っ!笑!確かに!

どんな言葉を言われても、どんな意味づけをするかどうかは、自分が決めていいのだ。それがいいのだ。